円楽の大江戸なんでも番付

円楽の大江戸なんでも番付 BS朝日「円楽の・・」制作チーム著
 
「見立て番付」から聞こえる 江戸の庶民の息遣い
テレビで こんな番組があった とは、知りませんでした。江戸時代から 続く 老舗があり
日本の文化あり 歴史ありき 楽しめました。

江戸三大蕎麦」砂場 更科 藪 
1)砂場 南千住砂場 「細くて白い、こしのある蕎麦 つゆは甘辛・・藪より辛くなく 更科より甘くなく」14代店主 長岡考嗣さん
2)更科 更科布屋 7代目・金子栄一さん 御前粉を熱湯で・・更科一門が生み出した発明
3)藪蕎麦 後発ゆえのアイデアで庶民に受けた。神田淡路町かんだやぶそば 4代目店主 堀田康彦さん 神田は、下町で職人の町 ・・ここで働く人々 好み 味の濃いもの

ウナギの始まりは、屋台
 かば焼きは、ぶつ切り うなぎを串にさし塩をふって 焼いたシンプルなもの・・
 ガマの穂に似ていた「蒲の穂焼き」「蒲焼」となって 名前のみが残った。
 東西で違う 調理法 鰻の割き方は、周知の通りですが・・・
 江戸では、どうして 蒸すことになったか?前川の6代目店主 大橋一馬さん
 「関西に比べ 北・・冬 鰻の皮が厚くなる・・皮の弾力が強くなる・・蒸さないと食べられない」
 うなぎ大野屋 出前に温めた米ぬか・・保温のため・・ぬかを取るのが大変・・ごはんの間に鰻を
 はさんだ のが始まり・・・「うな丼」「うなぎめし」

寿司の元祖 
 笹巻きけぬきすし 千代田区神田小石川町 東京に現存する 最古のすし屋
 毛を抜くように 丁寧に魚の骨を抜き シャリとネタを笹の葉に巻き 発酵させ作った。

 握り寿司誕生 安価な酢 粕酢(赤酢) 江戸には、新鮮な魚があるため 長時間発酵ではなく
 シャリに酢を混ぜ握ったのが 始まり。酢と塩でしめたり 醤油漬けにしたり 冷蔵庫が普及する
 まで昭和初期までは、保存と味を高める手法で。

300年の伝統 にんべんの鰹節
 船で大阪から江戸まで何日もかかり カビがはえ・・おかげで 水分が限界まで抜けた 「枯節」誕生
 
羊羹のルーツは、なじみ深いですが ・・日本橋「鈴木越後」一本5万円だったとか・・
鈴木氏は、薬売り 「選血散」という婦人病の薬を調合・・砂糖(昔は、薬)仕入れて羊羹を江戸の菓子屋に送っていたというわけらしい。
江戸末期 富山市内で150年以上 「鈴木亭」名物 木目羊羹 鈴木越後の伝統受け継ぐ。

日本橋 三越の全身 越後屋 画期的な商法?
 初代当主 (三重県・伊勢)三井高利 ビジネス戦略
 「現金掛値なし」から 安く 現金販売 現金さえあれば 誰にでも 商品を売ることで評判。
 裁ち場をつくり 布の切れ端を販売 庶民にうけた。
 人材育成 広告戦略 越後屋の名前入り傘を無料で貸し出し(現代のビジネスにも通じる)
白木屋 東急百貨店の前身?知りませんでした。
 こちらも 井戸水の提供 水をもらいに 人が集まる?(企業努力?)

飛脚の生みの親は、豊臣秀吉 安土桃山時代の終わりには、存在。
江戸 京都間を丸四日間 お急ぎ便で82時間 超特急便で60時間で 運んでいたとか
ナンバ走り

輪島塗の塗師 危機をどう乗り越えたか・・・
「魔鏡」鏡師 山本合金製作所の5代目 山本晃久さん 日本でただひとりの鏡師

五街道とは
「日本国道元標」日本橋から銀座方面に進めば 東海道 赤坂・四谷方面 甲州街道
神田方面へは、中山道 に日光街道 その先 奥州街道 これが五街道 今の道路・鉄道のもと

江の島が なぜ そんなに人気だったか?離れ島ではなく 砂州 橋がなく 干潮を待つか船で渡る
モーゼ気分。

富士山が どれだけ ありがたい山だったか?
人々は、上水道が完備されていない時代 水による病気が多かった 江戸から良く見えた富士山
山麓に豊かな湧き水をもたらす 救いを求めた。
400年以上の歴史がある「筒屋」伝統的「御師」登山者のサポートを生業

お釈迦さまが歯磨きの重要性を説いていた。
江戸時代の歯磨き粉は、原料が房州砂 歯ブラシが歯木(しぼく)

浅草寺仲見世 お寺の参道をきれいに?地元の人々に掃除をしてもらう代わりに 店を出しても
良いということになった。

江戸の暮らし 沢山の内容で まだまだ いっぱい ですが このへんで おひらき
こんな放送番組 あったの知りませんでした。